自己責任を嫌う一方で弱い人には厳しい。『蜘蛛の糸』そのものだよね。


SNSを眺めているとよく思うのが「自己責任」って言葉に対して、すごく強い拒否反応を示す人が多いってこと。「そんなの冷たい」「社会の構造が悪いのに個人を責めるなよ」みたいな感じで。

わかる気もするし自分だって言われたら嫌だなって思う。ところが、不思議なことに話が「他人」になると急に態度が変わる人が少なくない。例えば生活保護を受けている人たちに対して「ちゃんと働けよ」「努力不足だろ」「税金の無駄だ」って普段は自己責任を嫌っていたはずなのに相手が自分より弱い立場だと突然厳しく自己責任を押しつけてくる。傍から見てると、明らかな矛盾としか思えないんだよね。

なんでこうなるんだろうって考えてみると、結局のところ、自分のポジションは何が何でも守りたいっていう気持ちが強いんだと思う。

自分が苦しい状況に置かれたときや、将来そうなるかもしれないときは「自己責任なんかじゃない、社会のせいだ」って主張して自分を守ろうとする。でも、自分より下の立場にいる人が同じ救済の枠に入ってきそうになると、「自分の立場が危なくなる」って焦りが先に立つ。で、蹴落とそうとする気持ちが働いちゃうんだと思う。自分を守るための論理と他人を遠ざけるための論理がいつの間にか使い分けられてる感じがする。

この構図を見ていて芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出す。地獄にいる犍陀多が一本の蜘蛛の糸を必死によじ登っている。自分だけは助かるぞって思ってるところに後ろから他の罪人がたくさんついてくる。そしたら彼は「この糸は俺のものだ。お前たちが登ったら切れてしまうだろ」って叫んでしまう。まさに今のSNSで見かける風景そのものだと思う。

自分だけに与えられた(と信じている)一本の糸を登っている最中に後ろから他者が迫ってくる。「こんなに重みがかかったら切れる」っていう恐怖が自分より弱い人を叩くきっかけになってるんじゃないかな。

保身って言葉を聞くと、なんか「もっと欲張ってたくさん取ろうとしてる」みたいな積極的なイメージがあるけど実際は違っていて、ほとんどが「自分の立場が危うくなるのが怖い」っていう、すごく消極的な恐怖から来ているんじゃないかな。

積極的に何かを奪おうとしてるんじゃなくて、落ちたくない一心で動いてるだけなんだろう。芥川龍之介が『蜘蛛の糸』を書いたのは大正時代だけど、当時も同じような人間の気持ちはあったはず。今はSNSで他の人の生活が丸見えになってる分、格差や不安定さがより身近に感じられて余計にその怖さが強くなっている気がする。それが見えていた芥川はやっぱり天才だと思う。

人間のこういう本質をあんなにシンプルで残酷に描いたわけで。『蜘蛛の糸』は今読んでも「あ、これ今の俺たちだな」って感じる作品だと思う。