「大学に行くも行かないも自由」と言いすぎると子どもは糸の切れた凧のようになって人生を迷う



最近よく聞く言葉がある。「大学に行くも行かないも本人の自由でしょ」ってやつだ。最近橋本元知事が自身の子供との関わりについて似たようなこと言っていた。結果、かなり悩んでいるらしい。


僕も表面上は否定しない。実際、強制されるよりはマシだろうし、選択肢が増えたこと自体は悪いことじゃない。でも、これを無条件に美しい理想みたいに扱う空気には、少し違和感がある。というのも、この「自由」を本気で渡されたとき、大半の子どもは糸の切れた凧みたいになるんじゃないかと思うからだ。凧って、風が吹けば一応は飛ぶ。でも糸がなければ、どこに行くか制御できない。

子どもの場合、風に当たるのが「とりあえず周りの空気」や「なんとなくの流行」だったりする。大学に行くのが普通だと思われてる環境なら行くし、逆に「大学なんか意味ない」という空気が強いと行かない。どちらも、自分で選んだというより、風に流された結果に近い。「自由に決めろ」と言われた瞬間、多くの子は情報も経験も足りないまま決断を迫られる。

大学に行くメリット・デメリット、就職市場の現実、自分の適性、親の経済状況、将来の金利や景気の話まで、全部自分で集めて判断しろ、というのはかなりハードだ。大人でもちゃんとやれない人が多いのに、十代後半の子にそれを丸投げするのは、ちょっと無責任じゃないかなと思う。もちろん、すべての子どもが糸を必要としてるわけじゃない。最初から自分で風を読んで飛べるタイプもいる。そういう子にとっては「自由」は本当に機能する。

でも、大半はそうじゃない。方向感覚がまだ曖昧で、誰かに少し引っ張ってもらった方が、少なくとも墜落だけは避けられる、というケースの方が多い気がする。ここで「じゃあ親や学校が決めろ」と言うと、それはそれで息苦しい。

僕が言いたいのは、完全な自由と完全な強制の二択じゃない、ということだ。

糸はちゃんと持っておいて、ある程度の範囲で泳がせる、くらいの感覚の方が現実的なんじゃないかな。

「行っても行かなくてもいいよ」と言いつつ、ちゃんと情報を渡し、現実の厳しさも含めて一緒に考える。糸を完全に切るのではなく、少し長くしてあげるイメージだ。最近は「学歴なんて関係ない」という声も大きい。確かに一部の分野ではそうなってきてる。でも、全体として見ると、まだ学歴が効く場面は多いし、特に平均的な能力の人間にとっては、大学という通過儀礼がセーフティネットみたいな役割を果たしている部分もある。

それを「自由」の名の下に軽く切り捨てると、結局は情報弱者や決断力の弱い子が割を食う構造になりやすい。僕自身、大学に行った人間として言うのも気恥ずかしいけど、あの四年間が全部無駄だったとは思わない。少なくとも、糸が少しだけ長くなった感覚はあった。
もちろん行かなくても成功する人はいるし、行ったせいで迷走する人もいる。だから絶対に行け、とは言わない。
ただ、「自由」という言葉を盾にして、大人が考える手間を省いてしまうのは違うと思う。

糸の切れた凧は、風が強い日には意外と遠くまで飛んでいくこともある。でも、多くの場合はただのゴミになって落ちる。

大半の子どもをそこに放り出すのは、理想というよりは、ちょっとした怠慢なんじゃないかな。自由は大事だ。でも、自由を渡す前に、少しだけ糸を握っておく余裕くらい、大人にはあってもいいと思う。