とあるYouTubeで発達障害と子育てをテーマにした討論番組を見た。
番組では、発達障害の特性を持ちながら子育てをしている親と、自身の特性による生きづらさから、子どもを持たないという選択をした人などが登場していた。周囲から「親なのだからこうあるべき」と見られることへの苦しさや、子育てそのものへの不安、自分と同じような苦労を子どもに経験させてしまうのではないかという葛藤などが語られていた。
特に印象に残ったのは、「自分がこれまで苦労してきたからこそ、自分と同じような子どもが生まれたら申し訳ない」と考えてしまうことだ。
これは単純に「子どもが嫌いだから産みたくない」という話ではない。むしろ、子どものことを真剣に考えているからこそ、自分が親になることをためらってしまうという話だった。
この番組を見ていて、僕は少し別のことを考えた。
発達障害が「見える社会」になったこと自体が、少子化と無関係ではないのではないか。
もちろん、発達障害の認知が広がったことが少子化の主要因だと言いたいわけではない。少子化には経済的な問題、結婚年齢の上昇、仕事と子育ての両立、価値観の変化など、いろいろな要因がある。
ただ、「自分は普通の人とは違う」と認識する人が増えたことによる心理的な影響については、もう少し考えてもいいのではないかと思う。
昔は「発達障害」という言葉を知らなかった
僕らが子どものころを振り返ると、学校には「ちょっと変わった子」が普通にいた。授業中にじっとしていられない子、忘れ物ばかりする子、人付き合いが極端に苦手な子、こだわりが強い子、勉強はできるのに妙に不器用な子。あきらかに知的に問題のある子など。
もちろん、そうした子どもたちの中には現在なら障害と診断される人もいたと思う。しかし当時は、今ほど「発達障害」という言葉が一般的ではなかった。
落ち着きがない、変わった性格、不器用な奴、ちょっと変な子... そんな言葉で処理されていた。
これは決して昔のほうが良かったという話ではない。本人は本人で傷ついていただろうし、必要な支援を受けられなかったという問題もある。
ただ、一つ違うのは、自分自身を「発達障害」という言葉で説明する機会が少なかったことだ。
名前がつくことで救われる人もいる
発達障害という概念が広く知られるようになったことには、大きな意味がある。
「なぜ自分だけこんなにうまくできないのだろう」と悩んでいた人が、自分の特性を理解できるようになる。周囲も単純に「努力不足」と決めつけず、必要な配慮や支援を考えられるようになる。
これは間違いなく前進だと思う。
一方で、名前がつくことによって別の問題も生まれる。
「自分は発達障害だから、普通の人生は無理なのではないか」「仕事も大変なのに、子育てなんてできない」「自分の特性が子どもに遺伝したらどうしよう」... そんなふうに、自分の可能性を自分で狭めてしまうことがある。
特にSNSやYouTubeなどでは、発達障害についての情報が大量に流れている。自分と似た経験をしている人を見つけられるという意味では、とても便利な時代になった。
その一方で、自分の苦手なことを次々に発見してしまう時代でもある。昔なら「自分はちょっと不器用な人間なのかな」で終わっていたことが、今では「これは発達障害の特性なのではないか」と考えるようになる。
そして、それがさらに進むと、「自分は普通の人間ではない」という自己認識につながってしまう可能性もある。
「親になる資格」を社会は厳しくしすぎていないか
ここで僕が気になるのが、現在の「親になること」のハードルで、今の社会では、親に求められるものが多すぎるように感じる。
- 子どもの発達を理解する。
- 適切な教育をする。
- 子どもの気持ちを尊重する。
- 学校との関係を築く。
- ママ友や保護者との付き合いをする。
- 仕事と子育てを両立する。
- 子どもの将来まで考える。
もちろん、どれも大切なことだんだけど、ただ、これらをすべて完璧にこなさなければならないような空気が強くなれば、「自分には無理だ」と感じる人が出てくるのも当然だと思う。
まして自分自身に発達特性があると認識している人なら、「自分は普通に生きるだけでも大変なのに、子どもまで育てられるだろうか」と考えてしまうかもしれない。
さらに、自分自身が学校や職場で傷ついた経験を持っていれば、「もし子どもも同じような人生を歩んだらどうしよう」と考えるのも無理はない。
発達障害が見えるようになったことで、自分自身の生きづらさだけではなく、「親になることのリスク」まで見えるようになったのではないかと思う。
少子化との関係を考えてみた
ここはかなり慎重に考える必要があるんだけど...。
発達障害の認知が広がったことと少子化の間に、直接的な因果関係があるとまでは言えない。ただ、「自分は親になるべきではないのではないか」という意識を持つ人が増えることは、結果として出生数に影響する可能性はあると思う。
これは発達障害に限らず、「自分には子どもを幸せにする自信がない」「自分の遺伝的な要素を子どもに引き継がせたくない」「自分自身の生活で精一杯なのに、子どもを育てる余裕がない」... こうした考え方が広がれば、結婚しても子どもを持たないという選択は増えていく。
そして現代では、そうした情報を簡単に検索できる。
昔なら漠然とした不安だったものが、今では具体的な情報として目の前に並ぶ。これは便利な社会になった反面、「子どもを持つことの不安を必要以上に可視化してしまう社会」になったとも言えるのではないか。
「知らないこと」が幸せだったとは言わない
もちろん、だからといって昔のように発達障害を見えないものに戻せばいい、という話ではない。それでは問題の解決にならないので。
必要なのは、発達障害を知った先に、「だから人生が終わり」ではなく、「だからこういう工夫ができる」という選択肢が見えることだと思う(なのだけど難しいのは理解しているんだけどね)。発達障害があっても親になれる、仕事ができる、幸せに暮らせる、といった世の中であってもしい。
もちろん、本人の努力だけではどうにもならないこともあるので、周囲の支援が必須だしそれを良しとする社会になってほしいと思う。今はSNSなどを見ていると明らかに障害者排除の意見が蔓延しているんだけど...。
社会全体でもうちょっと考えてほしいところ。
「普通に生きられない」という感覚
僕がこの番組を見て一番考えさせられたのは、発達障害そのものよりも、「普通に生きられないかもしれない」という感覚だった。
昔は、そもそも「普通」というものが今ほど細かく言語化されていなかった。今はSNSを開けば、仕事もできて、結婚して、子どもを育てて、趣味も楽しんでいる人たちの姿が目に入ってくる。
そこに発達障害の情報まで加わる。すると、自分の弱い部分だけが妙に目立って見える。自分は普通じゃないって考えにたどり着く人が昔より圧倒的に多いはず。その結果、親になることに対する心理的なハードルが上がるわけで。
発達障害を可視化することは、当事者を救うために必要なことなんだけど、ただ、その可視化によって「自分は親になるべきではない」という自己否定まで生まれてしまっている。
少子化を考えるうえでも、案外こういうところが重要なのかもしれない。
「発達障害が見える社会」は、本来なら優しい社会になるためのものだったはずなんだけど、その社会で逆に「自分は親にならないほうがいい」と思う人が確実に増えている。
この矛盾については、もう少し考えてみてもいいのではないかと思う。
